
力まないこと-。試合本番で最大のパフォーマンスを発揮するため、多くのアスリートが重視するポイントだ。陸上男子短距離の高瀬慧(富士通)は今季序盤、この感覚をつかみつつある。
まず周囲の耳目を集めたのが、4月29日の織田記念100メートル決勝だ。スタート直後、大瀬戸一馬(法大)と九鬼巧(早大)に前に出られたものの、滑らかな加速で中盤に逆転。10秒13(追い風0・7メートル)と自己記録を0秒1も更新して優勝をさらった。
「体の力が抜けるかが勝負だと思っていた。予選は最後、上半身が動かなかったけど決勝はすーっと動けた。力が抜けた最高のレースだった」。
実は、ここまで納得のいかない試合が続いていた。本人の言葉を借りれば「余裕のない走り」。例えば、4月20日の出雲陸上300メートルも終盤100メートルで伸びを欠いた。「もう1回そこから行こうという意識が出て失速につながった」。つまりは力みだ。この織田記念ではスタートから60メートル付近でトップスピードに乗ったら、あとは動きをキープすることだけを心掛けたという。
決勝の10秒13は日本歴代9位タイの好タイムである。それでも「10秒1台は今シーズンの目標としていたので、出て当たり前かな」と喜ぶ様子はない。25歳は穏やかな表情の奥に、シーズンオフのトレーニングで培った自信をたたえていた。
■「へどを吐く」トレーニング
高瀬はこの秋から冬にかけ、体作りに重点的に取り組んできた。大学時代から指導する順大陸上部の佐久間和彦部長は、その苛烈さを「へどを吐くほど」と表現する。
新たに導入したメニューの一つが、重りを引くトレーニング。小型のソリにウェイトトレーニングで使うプレートを乗せ、長さ2メートル強のゴムホースとベルトで腰に結びつける。その状態で直線50メートルの砂地を往復するのだ。
佐久間部長は「足下が不安定なので軸をしっかり作らないと走れない。嫌でも体がバランスを取らざるを得なくなる」と解説。毎回、立てなくなるほど繰り返したことによって「地面に加える力がかなり大きくなり、接地の時間も短くできるようになった」と、短距離走において重要な要素が伸びたと指摘する。
高瀬自身も効果を実感している。「パワーを付けたことが、うまくはまった。重りを引いてパワーを小刻みに出すトレーニングが一番効果があった」。
それまでは、走りの流れが悪くなると「動き」ばかりを意識しすぎ、さらに状況を悪化させる負のスパイラルに陥っていた。だが、今は出力が増したことで変な力みが減り、イメージする走りを自然と出せるようになってきた。
佐久間部長によると、筋肉や腱は伸びたら縮もうとする性質があり、固まった状態からより、緩んだ状態からの方が大きな力を発揮できる。「精神的に落ち着いて走れるようになったことが一番良いところ」だという。
■米国修行で崩れたバランス
腰を据えてトレーニングに励んだ背景には、前年の教訓があった。
高瀬は昨年2月、一層の成長を求め米フロリダ州に渡った。だが、結果として、この約1カ月の武者修行は裏目に出てしまう。
関係者によると、アテネ五輪100メートル金メダリストのジャスティン・ガトリンらが拠点とするクラブで指導を受けた。「踵の巻き込みをかなり意識させられた。筋力がある外国選手はできるだろうが、なかなか日本人ではできない。動きがおかしくなってしまった」と佐久間部長。
一度、狂った歯車を戻すには時間が掛かり、何とか形になったのが6月の日本選手権。200メートルで3位に入ってモスクワ世界選手権の代表権を勝ち取り、関係者は胸をなで下ろした。
所属先の佐久間幸宏マネージャー兼一般種目コーチは「米国から帰国後、しばらく『何か違うんですよ』と言っていたからね。その上で、去年の“気づき”が今年の国内でのトレーニングにつながっている。今は米国に行く前に目指していた『力をうまく伝える』というイメージに近づいているのではないか」と見ている。
■静岡国際で見えた“現在地”
好走は5月3日の静岡国際でも続いた。得意とする200メートルに出場し、予選で全体トップの20秒34(追い風1・7メートル)。織田記念の100メートルに続き、200メートルでも自己記録を0秒08更新してみせた。
続く決勝は静岡県の後輩、飯塚翔太(ミズノ)との競り合いに。カーブを抜けたところで、ほぼ並ぶ展開となり、直線で最後わずかに遅れ、20秒45(同0・8メートル)の2位だった。
レース後、高瀬の表情は渋かった。理由の一つは当然、優勝を逃したからである。コーナーを抜けた時点で「行ける」と直感したが、ラスト50メートルで2レーン右の飯塚に視線が向き、生命線である腕の振りが乱れた。「腕振りのタイミングが合わずに崩れた。もう少し柔らかく使えれば良かった」と悔やむ。
もう一つは、予選でアジア大会(9月開幕、韓国・仁川)の派遣設定記録Aの20秒28を突破でなかったこと。「派遣記録を切りたいという雑念との戦いだった。(レース前まで)イライラして高ぶりがあった。あまりない経験だったので、どう出るかと思っていたけど…」。実際は集中の度合いも走りの感覚も悪くなかったというものの、目標に0秒06届かなかった。
改めて身に染みたのは「狙った試合で結果を出す難しさ」だった。織田記念が「狙っていなかった」だけに余計にそう感じられた。
佐久間部長は言う。「強い選手というのは自分の力を出すことだけに専念している。そういう部分が高瀬にも出てきた。もっと分かってくれば力が出せる」。そして、179センチ、62キロのスプリンターの課題として、さらなる筋力アップを挙げ、「強くなりたいという願望がものすごく強いし、毎日の練習をコツコツ積み重ねていくしか近道がないことも良く理解している」と、その背中を押す。
今季の目標は20秒1台、そしてアジア大会でのメダル獲得と公言する高瀬。「タフさがないと、もっと上には行けない」。自己記録が通過点であることは、本人が一番よく分かっている。(宝田将志)