
18歳の高校生ルーキーに、試練が訪れた。23日に行われた西武戦(コボスタ宮城)で、プロ4度目の先発登板に臨んだ楽天のドラフト1位、松井裕樹投手(桐光学園高)。「背水の覚悟で臨んだマウンドだったが、制球難を露呈して5回5失点で降板した左腕に試合後待っていたのは、「2軍再調整」という厳しい現実だった。プロの壁に直面した背番号1は、この厳しい現実からどう這い上がっていくのか。(浅野英介)
■「制球難」克服できず
時計の針はすでに午前零時を回っていた。4月とはいえ、夜になると冷気が肌を刺すコボスタ宮城の関係者駐車場。試合終了から2時間余りが経過して、ロッカーから大量の荷物をまとめてようやく出てきた松井裕の表情は、こころなしか憔悴(しょうすい)していた。
「自分の課題は見えているので…」
か細い声で報道陣にそう言い残すと、用意されたタクシーに乗り込み球場を後にした。
「2軍再調整」もやむを得ない投球内容だった。過去3度の登板でも四球を連発するなど制球難を露呈し、「チャンスは最後」(星野監督)と背水の陣で臨んだ4度目の先発マウンド。しかし、18歳には厳しい現実が待っていた。
一回から3連続四球を含め、この回だけで5与四球。二、三回こそ三者凡退でしのいだが、五回には自らの四球で傷口を広げて3失点。結局、5回5失点、8与四球と、投球を立て直せないままマウンドを降りた。
■投球フォームに課題
試合直前の松井裕の状態を、森山投手コーチはこう証言する。
「ブルペンではばらつきはあったものの、強い球は投げられていた」
確かに、試合でのストレートは140キロ台後半と球威はそれなりにあった。だが、踏み出した右足が突っ張り、重心が後ろに残って球が上ずってしまう“悪癖”をこの日も露呈。投球フォームに課題が残ったのは、まぎれもない現実だった。
登板前は「今は成長過程。投げていくうちにコツを覚えていく」と期待を寄せていた星野監督も、試合後は厳しい言葉を並べるしかなかった。
「四球は覚悟していたが、最初からあれでは…。ここまでみんな我慢した。(1軍での登板は)もうない。もう一回、ピッチングのABCからやってもらう」
五回まで我慢して続投させた“親心”に応えられなかった18歳に対し、指揮官は一からの出直しを命じた。
■他球団は警戒
オープン戦で好投を続けたとはいえ、1軍の公式戦ともなれば、対戦相手も左腕攻略へ目の色を変えてきたのも事実だ。高校時代には空振りを誘った切れ味鋭いスライダーも見極められ、クイックやセットポジションからの投球に課題があると分かると、機動力でも徹底的に揺さぶられた。
それでも、対戦した他球団からの評価は高い。日本ハムの主砲、中田は「右打者に食い込むスライダーは10代の投げる球じゃない。直球にも力があるし、マウンドでの度胸もある」と警戒を強める。西武の伊原監督も「高卒1年目であれだけ速い球を投げられるのは魅力。工藤公康(元西武、巨人など)を思い出した」と潜在能力の高さを認めた。
「まだまだクリアすべき課題があるので、しっかり取り組んでいきたい」
自らに言い聞かせるように、再出発を誓った松井裕。越えるべきハードルは、確かに高い。それでも、プロの荒波を乗り越えていくには、自らの手で活路を切り開いていくしか方法はない。
愛知県にある名古屋ゴルフ倶楽部・和合コースで開催される「中日クラウンズ」。その55周年を記念したイベント「クラウンズチャンピオンズマッチ」が29日(火)に行われた。チャンピオンズマッチは第20回大会を記念して行われて以来2度目の開催となる。
石川遼、伝説の世界最小“58”など、ゴルフの大記録といえば?
イベントには共に5度の大会制覇を誇る青木功、尾崎将司を筆頭に、安田晴雄、陳志明、田中秀道、片山晋呉らそうそうたるメンバーが集結。2010年大会に最終日に“58”をたたき出した石川遼は出場しなかったものの、レジェンドたちの共演は雨中にも関わらず和やかな雰囲気で行われた。
競技方法はファーストステージとファイナルステージの2ステージ制。ファーストステージを勝ち抜いた4人にシード選手として青木、尾崎を加えた6名1組でファイナルステージは行われる。ラウンド中は青木と尾崎が仲良くラインを読むなど貴重な姿が見られ、記念イベントに華を添えた。
「クラウンズチャンピオンズマッチ」の模様は5月5日(月)にCBCローカルで放映される。
(撮影:米山聡明)<ゴルフ情報ALBA.Net>
「役者は虚業に生きる人間で、観客に元気を与える以外、役には立たない。身に余る光栄です」。瞳の力強さはそのまま、顔をほころばせて喜びを語った。
「日本映画の父」と呼ばれる映画監督の牧野省三を祖父に持ち、芸能一家で育った。新聞記者を志していたが、兄の長門裕之の勧めもあり、昭和31年の映画「狂った果実」で俳優として本格的にデビューした。
だがその後はヒット作に恵まれず、苦労が続いた。40代で伊丹十三監督と出会ったことで、「ちゃらんぽらんだった」という仕事への姿勢が変わったという。「せりふを臓腑(ぞうふ)にたたき込むような覚え方をしないといけないと教わった」と語り、「マルサの女」をはじめ何度もタッグを組んだ名監督に感謝をにじませる。
マキノ雅彦の名で映画監督としても活躍。東日本大震災を題材にした作品や時代劇など、温めている企画は多い。
「受章はもっと頑張れという励まし。日本文化を世界に伝えるために、余生をささげたい」