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東日本大震災3年 忘れない 福島 力強く生きる - にゅーすめぢから

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2026.04.06|コメント(-)トラックバック(-)

東日本大震災3年 忘れない 福島 力強く生きる


 ■お年寄り助けた高校生の息子、津波にのまれた

 □いわき市 工藤功さん(54)、弥生さん(50)

 あの日、東北には粉雪がちらついていた、そして今日も。震災さえなければ、何も変わらない日常だったのだろう。被災地は11日、東日本大震災から3年を迎えた。月日は流れたが、遺族や被災者の悲しみが消えるわけではない。だが、生き得た者は、愛した人々に誓う。「きっと力強く生きてみせる」と。

 あふれる涙を拭っても、悲しみと後悔は消えない。お年寄りの避難を助け、津波にのまれた福島県いわき市の高校2年、工藤盛人(もりと)さん=当時(17)=の両親は11日、同市豊間地区の追悼式で花を手向けた。

 子供の頃は体が弱かった盛人さん。父の功(いさお)さん(54)は小学生の息子が台風で打ち寄せる大波を見て「津波が来たらどうするの?」と尋ねられた場面を忘れられない。「ここは来ないから心配いらね」と答えたことを、今もずっと後悔している。

 震災後、がれきの中から出てきた小学2年時の文集には「自分の家のことまもります」と書いてあった。

 「家が大好きだったんです。高校卒業後の進路も、自宅から通えるところがいいと話していました」

 母の弥生(やよい)さん(50)が目元を拭う。ボランティアが見つけてくれたり、友人たちが持ってきてくれたりした写真で新たに作ったアルバムを繰りながら、功さんが絞り出した。

 「盛人…おろかな親で、ごめん」

 震災後に引っ越した今の家からは、海は見えない。

 あの日、入試時期で高校が休みだった盛人さんを置いて、両親はそれぞれ仕事に出た。弥生さんはその日に限って、息子の昼食にてんこ盛りのチャーハンを作った。上機嫌の盛人さんが弥生さんに言った。

 「お昼が楽しみ」。それが最後の会話となった。

 激しい揺れの後、弥生さんが自宅に戻ろうとすると、みぞれが降り始めた。漫然と「息子はいないかもしれない」と思った。

 トンネルを抜け、飛び込んできたのは衝撃的な光景だった。海も道路もがれきだらけ。盛人さんを捜し回ったが、見つからない。急ごしらえの遺体安置所で、物言わぬわが子と対面したのは翌日だった。元気な17歳に育ったのに…。

 なぜ逃げなかったのか。両親は半月後、息子の最期の様子を知る。警察から「福祉施設の男性が盛人さんを捜している」と連絡があり、男性の話で、あの日の盛人さんの行動が明らかになった。

 揺れの後、外に出た盛人さんは、土地勘がなかった男性に声を掛け、「手伝いますよ」と施設のお年寄りを担架で高台のホテルまで運んだ。その後「じいちゃんとばあちゃんを助けに行く」と言い残し、海の方へ戻っていったという。

 「どうして一緒にいてやれなかったのか悔やんでいたけれど、最期まで盛人が精いっぱいやったと知って、少し納得できました」と弥生さんは振り返る。

 息子が残したかけらを拾い集める日々は続いた。

 友人から「GReeeeNを歌わせたらピカイチだった」と聞いたときは驚いた。机の引き出しに鍵をかけ、親への隠し事も増える年頃。息子のカラオケなど、両親は一度も聞いたことがなかった。

 震災時に家に遊びに来ていた別の友人は盛人さんにバスで逃げるよう言われ、バス停まで送ってもらったと証言した。お年寄りを助けたのはその後だろう。

 仲違いしたまま永遠の別れを迎えた友人は「今度会う時仲直りできるといいね」と書いた色紙を両親に託した。友人らの話には、両親が知らなかった盛人さんの姿が多くあった。

 今年1月、同級生は成人式を迎えた。「盛人も一緒に連れていくから」と友人が写真を持って参列してくれた。友人たちの中に盛人さんは確かに生きている。

 アルバムをめくると、思い出話をすると、どうしようもない寂しさが募る。それでも、母はこう思う。

 「忘れられちゃうほうが寂しいもの」

 家族や友人に囲まれ、愛され、あの日まで確かに息子は生きていたのだから。(道丸摩耶)

 大震災や、犠牲になった人々を忘れない。そんな思いを描いていきます。

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2014.03.12|コメント(-)トラックバック(-)
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