
【サラエボ(ボスニア・ヘルツェゴビナ)】当地の博物館の外壁に掲げられた横断幕からオーストリア=ハンガリー帝国のフランツ・フェンディナント大公が堂々と前を見据えている。別の壁では取りつかれたような顔をしたガブリロ・プリンツィプが大きく目を見開いている。ちょうど100年前、プリンツィプはこの美術館の前の通りで大公を銃撃し、第1次世界大戦の引き金を引いた。
「20世紀が始まった街角」――。横断幕にはそう書かれている。
38口径の銃から発射された2発の銃弾は最新の兵器の誕生を許し、いくつもの帝国を倒し、米国を孤立主義から引きずり出した。さらに凄惨な次の大戦や大虐殺、冷戦による欧州の分断の種がまかれたのもこの時だった。
100年経った今も、第1次世界大戦の傷跡は消えずに残っている。暗殺現場に掲げられた横断幕は現地のオーストリア人やドイツ人から「不適切で忌まわしい」と猛烈な怒りを買った。フェンディナント大公とプリンツィプはエイブラハム・リンカーン大統領と、大統領を暗殺したウィルクス・ブースのようなものだ。しかし、横断幕はまだ取り外されていない。
問題はプリンツィプをどのように記憶にとどめるべきか、そして、彼は英雄なのか、それともテロリストなのか、という点だ。弱々しい19歳のセルビア人革命家プリンツィプは100年前の6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の支配に抗議する目的で大公を殺害した。欧州では、戦闘員と市民を合わせて約1500万人が犠牲となり、現代の幕開けとなった第1次世界大戦の記念式典の準備が4年がかりで進められている。その間、くすぶり続けた議論の1つがプリンツィプの評価をめぐる議論だった。
戦争勃発の責任はドイツにあるのか、第1次世界大戦は尊い戦いだったのか、それとも無意味だったのか――。欧州連合(EU)がナショナリズムが再燃する大陸を一つにまとめようと懸命な努力を続けるなか、ありとあらゆるテーマについて対立が生じている。第1次世界大戦をめぐる摩擦から見えてくるのは、一部の地域では過去はまだ生きているということだ。
暗殺がさほど珍しくなく、民主的に抗議する方法がほとんどなかった時代に専制君主に一撃を加えた理想主義者。多くのセルビア人はプリンツィプをそうとらえている。君主制を終わらせ、多民族の共和国を作ろうとした彼の価値観は現代の欧州人のそれに似ているのだという。
英国がドイツに宣戦布告してから100年目となる8月4日――この日を境に紛争は世界大戦と化した――が近付き、戦争の原因と意味を問う議論が再燃している。世間の注目はこれまでアドルフ・ヒトラーという悪人とホロコーストという恐怖を生んだ第2次世界大戦のほうに集中していた。勃発から100年という節目を迎えたことで、第1次世界大戦が再び注目されつつある。第1次世界大戦のほうが第2次世界大戦より重要とみる歴史家もいる。
第1次世界大戦は今でも欧州において強烈な存在感を放っている。フランスとベルギーでは何百もの小さな町に戦没者の名前を記した記念碑が保存されている。ドイツが初めて毒ガスを大規模に使用したベルギーの都市イーペルでは、毎晩午後8時になると、地元のラッパ隊が「ラストポスト(軍葬ラッパ)」を演奏している。1928年から続く伝統だ。
イーペルでは1914年の「クリスマス休戦」を記念するために年に1度、サッカーのトーナメント戦が行われる。当時、英国とドイツの兵士は武器を置いて、双方の塹壕(ざんごう)の間の中間地帯でサッカーをした。ブリュッセルの中心部には、1914年8月3日に前線に向けて兵士が出発した場所に記念のプラークが置かれている。この兵士の多くが死亡した。
ベルギー・フランドル地方の遺産と観光を管轄する当局のトップ、ヘールト・ブルジョア氏は「この地方の人間でなければ、3世代目、4世代目になってもなぜこのような習慣が残っているのか、想像できないかもしれない」と話す。「米国国内に4年間、他国に占領された地域があると想像してみてほしい。どれほどの影響があったか、見当もつかないだろう」
英国政府は国内の全世帯に対し、8月4日の午後11時に全ての照明を消すよう呼び掛けている。100年前のちょうどこの時間、英国は大戦に参戦した。当時のエドワード・グレイ外相の有名な言葉「欧州中の明かりが消えるだろう。われわれが生きている間に、その明かりが二度と灯ることはない」を記念するイベントだ。
英国は大戦で亡くなった英国連邦内の犠牲者の数と同じ88万8246本のセラミック製のポピーをロンドン塔に設置した。8月にはフランスとドイツの大統領がフランスのベルダンで会談する。両国は100年前にこの地で10カ月にわたって戦闘を繰り広げ、25万人を超える人が亡くなった。ベルギーのアントワープでは、100年前に包囲から逃れるために使われたポンツーンブリッジがベルギー政府によって再建されている。
欧州の戦場や墓地では観光客の急増が予想されている。カナダ人兵士ジョン・マックレア氏の詩「In Flanders Fields(フランドルの野にて)」に描かれたフランドル地方は2018年まで年間50万人の観光客が訪れると期待している。米国でも記念のイベントが計画されているが、同国が参戦したのは1917年だから、100年目を迎えるのはまだ先だ。
さまざまな記念行事が行われ、大戦を見直す新刊本がベストセラーになる中、かつての論争が再び息を吹き返しつつある。歴史家の中には、ドイツがセルビアと対立していたオーストリア=ハンガリー帝国を支持し、中立的な立場を取っていたベルギーに侵攻した結果、大戦が始まったとしてドイツの責任を指摘する向きもある。一方で、当時は欧州各国が軍事的にも外交的にも瀬戸際政策を展開していたため、責任は各国にあるとする見方もある。
ドイツでは政府が第1次世界大戦に関する博物館の展示や公開討論会、ウェブサイトを後援しているものの、他の国と比べると、大掛かりな記念式典は非常に少ない。メルケル首相は26日にイーペルで行われた記念式典にEU首脳とともに出席しており、これを含めてベルギーで2つの記念式典に出席する。
一部の歴史家は、ドイツ人が数十年にわたって第2次世界大戦の過ちに苦しみ続けており、第1次世界大戦に改めて目を向けたくないのかもしれないと指摘している。
ドイツのエッカルト・クンツ駐ベルギー大使はドイツが100年という節目を軽視しているとの見方を否定したが、今まで多くのドイツ人が第1次世界大戦にはあまり注目してこなかったことは認めている。
クンツ大使は「第1次世界大戦は第2次世界大戦、ホロコースト、欧州の分裂、ドイツの分裂の影に隠れていた」が、それも今では変わりつつあると述べた。
英国の指導者は戦争が悲劇的な過ちだったのか、それとも尊い戦いだったのかという問いをめぐって非難の応酬を繰り広げている。マイケル・ゴーブ教育相はデイリーメール紙に寄稿し、大戦を「誤った戦い、悲惨な過ちの連続」と表現する動きを批判した。ゴーブ氏は英国がドイツの「情け容赦ない」暴政に固い決意を持って立ち向かったと述べた。
一方、労働党の著名議員、トリストラム・ハント氏はゴーブ氏が政治的な目的のための100年目という節目を利用していると厳しく批判した。
暗殺者プリンツィプをめぐる意見の対立はさらに激しい。プリンツィプと共謀者たちはオーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア支配を終わらせることだけを考えていた。彼らは年老いた皇帝の後を継ぐとみられていたフランツ・フェルディナント大公のサラエボ訪問を予想して、セルビア内部からの支援を得て暗殺計画を企てた。
1914年6月28日、大公の車列がサラエボの町を進むと、共謀者の1人が手りゅう弾を投げつけた。大公には当たらなかったが、複数の随行者が負傷した。大公は入院した随行員を見舞うことにしたが、車が道を誤り、プリンツィプの目の前を走った。プリンツィプは大公と妻のゾフィーを狙って至近距離から銃を発射、2人を殺害した。
当時20歳になっていなかったプリンツィプは絞首刑を免れたが、数年後、服役中に死亡した。オーストリア=ハンガリー帝国は報復としてサラエボを攻撃、欧州各国は即座に敵味方に分かれた。新しい兵器の登場によって大戦ではかつてないほど多くの人が死んだ。
プリンツィプの亡骸はサラエボ郊外の、ビールの看板のすぐ隣にある小さな礼拝堂に安置されている。そこを訪れたときには、2つの枯れた花束とろうそく1本が供えられていた。
多くのセルビア人は、戦争を望んでいた欧州の列強はプリンツィプによる暗殺を言い訳に利用した上、今になっても自らの罪を隠そうと、暗殺が大戦の原因だったと強調していると考えている。一部には、プリンツィプをオーストリア=ハンガリー帝国の支配からスラブ人を解放しようとした英雄とみる人々もいる。
ボスニアにあるバンジャ・ルカ大学の歴史家、Zeljko Vujadinovic氏は「第1次世界大戦に関係した全ての国、特に修正主義的な願望を持つ国は、ガブリロ・プリンツィプを大量虐殺者や暗殺者、オサマ・ビン・ラディンと呼び、彼を非難する口実を探している」と語った。
By NAFTALI BENDAVID